【南河内郡太子町】神功皇后誕生伝説がある山田地区科長神社で祀られる神は?大阪で珍しい船形地車が宮入り

地車(だんじり)は南河内地域では祭りの定番ですが、そのほとんどは秋祭りで登場します。しかし南河内郡太子町のある神社では、夏祭りに地車が登場します。それだけではありません。大阪府全体でも非常に珍しい船形の地車が宮入りするのです。

その神社の名前は科長神社(しながじんじゃ)です。夏祭りは7月27日に終わりましたが、夏に地車、それも珍しい船形地車が登場するということでとても気になり、夏祭り見学後に科長神社や船形地車の由来などを調べてみることにしました。

まず神社名の科長(しなが)でふと感じたのは、同じ読み方の磯長(しなが)との関係で、どちらも同じ太子町の古くからある地名です。そして、「磯長」の別の表記が「科長」なので、同じ場所のことを指しています。たとえているなら飛鳥と明日香の関係のようなものです。

古代の河内国石川郡の地名を調べてみると、科長郷という地名がありました。なお、科長神社の最寄りのバス停は、推古天皇陵前バス停です。

南河内郡太子町の歴史を見ると、1956(昭和31)年に磯長(しなが)村と山田村が合併して発足したとあります。旧磯長村は、聖徳太子廟(磯長廟)がある叡福寺があるあたりですが、科長神社は旧山田村にある神社です。

つまり、科長神社の夏祭りは旧磯長村ではなく、旧山田村の町衆・地車が集まる祭りです。

さて神社の近くまで行くと、宮入直前の地車と遭遇しました。山田地区には東條町、大道町、西町、永田町、後屋町と5台の地車があり、順番に科長神社に宮入りしていきます。

船形地車は大阪府下では3台あるそうですが、そのうちの1台は住之江区安立南町の地車です。しかしそれは現在大阪歴史博物館で保管・常設展示されており、現役は2台だけ。いずれも太子町の山田地区にあって科長神社に宮入りしています。画像の地車は東條町で磯長丸という名前(外部リンク)がついています。もうひとつは後屋町で、かつては永田町も船形だったそうです。

意外だなと思ったのは、全国的に有名な岸和田の地車は港町だから船形があっても不思議ではありませんが、なぜか岸和田にはありません。逆に、山が迫った太子町で船形の地車があることはとても不思議です。いったいどういうことでしょうか?

その背景として上記リンク先にくわしく書いてあるのですが、考察として次の三つを背景に挙げています。旧山田村にはかつて田中家という豪商がいてそれが関係しているそうです。

仲哀(ちゅうあい)天皇の妻で応神天皇の母である神功(じんぐう)皇后に関係する伝承は、南河内地域にいろいろと残っています。しかし、それらの南河内の伝承以上に、この神社のある場所は神功皇后との関係がとても深いとされています。

その点を探っていくと興味深い事実が出てきました。科長神社は平安時代の「延喜式神名帳」に記載のある式内社なので、昭和時代に皇學館大学出版部が出版した「式内社調査報告」で調査結果が出ています。それよると「科長→磯長→息長」と言い換えがあり、古代の豪族だった息長氏(おきながうじ)との関係を指摘しています。


そして、神功皇后は息長氏の出身で、仲哀天皇に嫁いだとされることから、
科長神社が鎮座している場所は神功皇后誕生の地という伝承があるとのこと。そして科長神社は、神功皇后所有と伝わる雛形の兜を社宝としているそうです。

現物は非公開ですが、雛形の兜のレプリカが太子町立竹内街道歴史資料館で公開されています。

科長神社の主祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長津姫命(しなつひめのみこと)です。日本神話に登場し、国造りの神イザナギとイザナミの間に生まれた神で、風の神さまとのこと。祀られている2柱の神は、夫婦とも姉弟とも言われているそうです。

風の神さまが関係しているのかどうかはわかりませんが、この日は晴れた日なのに、日陰にいるとときおり冷たい風が吹いていて、とても気持ちよかったです。

このほか科長神社では以下の神々が祀られています。ちなみに配祀(はいし)とは、主祭神のほかに境内でほかの神を祀ることで、合祀(ごうし)とは、合わせて祀られている神々です。

科長神社の創建は不詳とのことですが、もともとはこの場所に鎮座したわけではなく、二上山の山上に祀られていて、二上権現と呼ばれていたそうです。現在の場所に移ったのは、鎌倉時代の1238(暦仁元)年とのこと。もともとこの地には、一名土祖神社(恵比須神社)があったそうですが、科長神社が移ったときに境内の末社となりました。

(石灯籠に「八社」の文字が)

また「式内社調査報告」によると、鎌倉時代の公卿だった藤原頼孝(ふじわらのよりたか)が、二上権現を現在地に移させる際に、自ら(藤原氏)の祖神である「春日神」を勧請(御霊を呼び寄せた)した上で合祀し、「八社大明神」と称したことから、江戸時代までは八社大明神という名前だったそうです。


太陽の日差しが強くて陰になってしまったので、残念ながら上の画像では見えませんが、調べてみると境内に入る大鳥居の扁額には「八社大明神」と記載されているそうです。

その後の科長神社ですが、1872(明治5)年4月1日に郷社となり、さらに1907(明治40)年1月28日に神饌幣帛供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ:地方公共団体から供進を受けられる神社)に指定され、同年には近隣の科長岡神社・素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)を合祀したそうです。

夏祭りで宮入の最中だったので境内をゆっくり見ることはできませんでしたが、科長神社の境内には境内社として二上神社・恵比須神社・琴平神社・稲荷神社が鎮座しています。ちなみに画像に見える金平大明神の左右に狐がいることから稲荷神社のようです。

さらに本殿の裏側には八精水と呼ばれる湧き水があるそうで、伝承では現在の奈良県葛城市に該当する当麻(とうま)の刀鍛冶がこの水で刀剣を鍛えたと言われています。このように調べてみると、科長神社は様々な歴史や伝承が残る由緒ある神社であることがわかります。

すべての地車が無事に宮入りしたことで、宮司によるお払いが行われていました。

ここから夏祭りの神事が行われます。船形地車が並んでいますが、奥の東條の船形地車の前のほうに板が載せられています。以前、河内長野の高向地区で聞いた話では、毎年当番制で毎年地区の町ごとで別の役割が回ってくるそうで、おそらく山田地区でも毎年当番があって、それぞれの役目を担っているものと考えられます。ということで今年は東條の町衆が今から行われる神事の当番と考えられます。

板の下をみんなが支えています。

口上が行われています。河内俄(にわか)が始まるのでしょうか?

衣装を着た人が出てきました。

しかし、これは俄ではありません。三番叟(さんばそう)と呼ばれる日本の伝統芸能の一種とのこと。調べると五穀豊穣、子孫繁栄を祈る意味があるそうです。

次に太鼓が用意されました。

八社太鼓とよばれるものです。

こうして太鼓の奉納が行われました。

そして、いよいよ神輿が登場しました。

まだこの時点では神社の御霊(みたま)は入っていない状況です。

宮司が本殿から御霊を運ぶ儀式をしている間、この年の当番の町衆(西町)が神輿の屋根に鳳凰を取り付けています。

あとは、宮司が御霊を運んでくるのを待つだけです。

宮司が御霊を運んできました。このまま神輿の中に乗せていきます。

こうして神輿の中に科長神社の御霊が入り、当番の町衆によって神輿が担がれて御旅所(おたびしょ)に向かいます。

神様の御霊が乗った神輿が鳥居の先の御旅所に向かっていきました。その際に真ん中の通路を開けるために宮入していた船形地車が後ろに下がっています。

夏祭りは午後から夜にかけて続きますが、私はこのタイミングで引き上げました。

いつもなら何もない静かな境内で神社の祭神や伝承などの由来を紹介するのですが、今回は神社境内が1年で最もにぎやかな夏祭りのタイミングとなりました。

大阪では珍しい船形地車が宮入りする旧山田村(山田地区)に鎮座する科長神社は、太子町の中でも東側、山の近くにあります。神功皇后の誕生伝説もある自然と歴史を強く感じる場所でした。

科長神社

住所:大阪府南河内郡太子町山田3751
アクセス:推古天皇陵前バス停から徒歩10分