河内長野駅前で東西の高野街道が合流し、ひとつの高野街道となって和歌山に向かって道が続きます。そんな高野街道でも三日市町駅前までの区間は見どころも多く河内長野市の代表的な観光エリアになっています。

1 酒蔵通り

2 天野酒・天空

3吉年邸のくすのき

4 長野神社

5 別久坂

6 烏帽子形八幡神社

7 烏帽子形城

8 上田駅高札場

9 三日市交番

10 油屋跡

11 高野街道三日市宿





河内長野駅のバスロータリーから左にまがると立派な高野街道碑があります。ここで東西の高野街道が合流してひとつの高野街道になります。

高野街道碑を過ぎてから酒蔵通りまでは杉玉が付いた旧家が続く坂道を下ります。


長野神社の手前の坂道を右に下り道なりに歩いていくと、やがて酒蔵通りと呼ばれる道に到着します。ここは南河内地域ではほぼ唯一となった天野酒(西条合資会社)の酒蔵があり、その酒蔵を挟んだ通りは古い街道の雰囲気が今でも残っています。

酒蔵通りはその先の西條橋付近までとなっています。




酒蔵通りには名前の通り酒蔵があります。天野酒さんの正式名称は西條合資会社という名前で、河内長野市内はもとより南河内でも貴重な酒蔵。豊臣秀吉が愛したと称される僧房酒を再現して販売しています。通りには天野酒の直営店があり、天野酒さんのお酒がお土産に買えます。年明け早々は蔵見学会、初夏の頃にはホタルの鑑賞会が行なわれます。

目の前の登録有形文化財を改装して大阪産料理天空がオープンし、酒蔵の目の前で天野酒さんのお酒とそれに合う料理が味わえるようになっています。



河内長野駅から高野街道に入ったすぐのところにあるのが吉年(よどし)邸です。その敷地から大きく街道にまで張り出して育っているのはくすのきです。幹周りが5.21mで樹高が20mあり、昭和45年11月26日に河内長野市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。

またくすのきと同様に街道から見える吉年邸の塀や蔵も江戸時代の豪商の名残を感じる雰囲気のあるものです。

河内長野駅から高野街道に入り、酒蔵通りのある右側の坂を降りずにまっすぐ行くと長野神社があります。創建年代は不明ですが、1543(天文2)年ごろに建てられたとされる本殿があり、国の重要文化財です。幕末までは木屋堂の宮(こやどうのみや)、牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)と呼ばれていましたが、1868年から長野神社になりました。

境内は本殿のほか恵比寿社があり、1月10日の長野戎では、屋台も多数出て大いに賑わいます。そのほか10月には300年以上の歴史をもつ「タイマツタテ」神事が行われます。また境内社としては五社(高良、春日、八幡、多賀、熊野)と天神社があります。さらに大阪府下では最大の大きさを持つカヤの木が境内にあり、府の天然記念物に指定されています。


高野街道は酒蔵通りを越えて石川に架かる旧西條橋を渡ると上り坂になります。途中国道を横切ると、別久坂(びっくざか)と書かれた表示板があります。別名「ビックリ坂」、「別宮坂(べつぐうざか)」とも呼ばれ、高野街道の坂が石川の水面のすぐ近くまで下ったと思ったら、橋を渡ってまた坂を上るからびっくりするような意味合いで名前が付いたそうで、その他にも複数の説があるようです。別久坂を取り上げた道中歌や狂歌もあるとのこと。ちなみに実際に上ると坂道ではありますが、そこまでびっくりするほど急というわけではない気がします。




高野街道をまっすぐに歩くと、烏帽子形八幡神社の入口があります。伝承では楠小二郎が烏帽子形城に入り、城の鎮護のために創建。また1480年に石川八郎左衛門尉が入母屋造りの社殿を建立したという記録が残っていて、その時に建てられた本殿は国の重要文化財です。祭神は素戔嗚命、応神天皇ら4柱です。10月の第二土日に秋季大祭、12月第二日曜日に湯立神事、1月6・7日には境内社の恵比寿社でえびす祭が行われます。

境内には楠木正成が、湊川の戦いに向かう前に、武運を祈願して植えた楠公武威松の一部が保存され、境内の入り口には幕末・中津藩の剣豪で、烏帽子形八幡神社の神職を務めながら地元の人たちに剣術を教えたという黒谷翁(くろやおう)こと黒谷左六郎重寛の石碑があります。



烏帽子形山山頂にある山城跡です。周囲には高野街道が合流し、和泉、紀伊、大和とを結ぶ街道が近くにあります。伝承では楠木正成が築城した楠木七城のひとつとされ、平安末期の源行家の長野城という説もあります。

戦国時代には畠山氏や三好氏といった大名同士の争いで何度も城主が変わる。信長の河内を支配後も重要拠点して残されました。キリシタン武将伊地知文太夫が支配した時代は、城下ではキリスト教の一大拠点になります。秀吉の時代紀州攻めの拠点として大幅に改修され、江戸時代初期に楠木氏の末裔と称する甲斐荘氏が城主となるが1617年に廃城になります。昭和30年代に風致公園として整備され、2012年に大阪府で70年ぶりに国の史跡に指定されています。

江戸幕府により高野街道の整備が行われ上田村と三日市村に宿継御用「三日市宿」の形成を命じた際にその入り口に設けられた人馬継立の駅(幕府の公用で旅をする人たちの荷物を送るための拠点)「上田駅」が設けられて、そこに高札場を設けて通行人に告知していました。

元々の高札は明治時代に撤去されましたが、現在も烏帽子形八幡神社に所蔵されており、それを基に平成22年「高野街道町並み再生事業」に伴って高札を復元し設置されたものです。上側の「親子・博奕・忠孝等高札」は当時と同じ実物大で、下側の「人馬定高札」は当時よりもやや大きめに制作されました。当時三日市宿が宿駅として賑わっていたことの証明にもなり、幕府の交通統制や当時の社会通念を知ることのできる貴重な資料です。河内長野駅側から高野街道を歩きこの高札を越えるといよいよ三日市町の宿場となります。


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